ヒップホップの歴史を知りたいならこれだけ見とけ。ヒップホップ・エボリューションのレビュー 

NETFLIXオリジナル作品ヒップホップエボリューション。

全ヒップホップファン必見の作品です。

ヒップホップがどのような歴史から、どういった土壌で、どういう人々から生まれたかが映像でタイムスリップしたかのように体験できます。(ブレイクダンス、グラフィティについてはあまりフューチャーされていないです。)

実際当時のヒップホップシーンに密接に関わっていた人物のインタビューをメインに話が進みます。

ヒップホップの本場アメリカの最近のラップアーティストにも見てほしいです。

ヒップホップの歴史や成り立ちを知りたかったら、とりあえずこの作品を観とけばかなり通ぶれること間違いないです。

この作品を見る前と後じゃヒップホップの楽しみ方が完全に違ってくるでしょう。



ヒップホップの誕生

3人の偉大なDJ

1970年代の初めヒップホップが誕生する前、ニューヨークのダウンタウンで流行っていた音楽はディスコミュージックでした。しかし、ディスコを楽しむ層はアッパークラスやセレブでした。

当時のニューヨーク、サウスブロンクスは都市開発の影響を受け貧民層、移民が住む荒廃しきった町そのものでした。

殺人、失業、ドラッグ、放火、窃盗が日常茶飯事の極めて治安が悪く、マザーテレサが訪れるほどの救いようのない町でした。

この章ではヒップホップ誕生の最重要人物3人をフューチャーしながら物語が進みます。

DJ Kool Herc DJクール・ハーク

Classic flow

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DJクール・ハークは12歳のとき、ジャマイカのキングストンからブロンクスに移住した移民です。日本人の感覚でいうと完全に外国人です。彼の英語も最初はジャマイカ訛りでした。

当時金持ちの大人がディスコパーティを開催する一方で、DJクール・ハークは小さい建物の1室を借りパーティを開いていました。もちろんそこではドラッグもやり放題。

彼がかける音楽はディスコミュジックではなくブラックミュージックであるソウルでした。

ただ、ソウルミュージックを流すだけなら誰でもできます。

彼の選曲、曲のかけ方がオリジナルであったため支持されたのです。

特に曲のかけ方がとても斬新でした。

そう「ブレイクビーツ」を編み出したのがDJクール・ハークなのです。

2つのターンテーブルを使い、両方とも同じレコードをかけドラムが強調されるパートを繰り返す事によってブレイクビーツは生まれます。

この手法はメリーゴーランドと呼ばれます。

そしてこのブレイクビーツにあわせて踊ることをブレイクダンスといいます。

そのブレイクビーツで踊る人をブレイクダンサー、またはBボーイと呼ぶようになりました。

Afrika Bambaataa アフリカ・バンバーダ

ニューヨークのサウスブロンクスではギャングがいくつもあり抗争が日常茶飯事でした。彼もギャングでした。

そんな、憎しみ合い、暴力的な環境に嫌気が差したバンバータは各ギャングのリーダーを説得しズールネイションという1つのファミリーに多数のギャング団をまとめ上げます。

ズールネイションの元で1つになったギャングたちが暴力の変わりに熱中していったのがヒップホップでした。

ヒップホップとはMC、DJ、ブレイクダンス、グラフィティの総称です。

ヒップホップを定義した名付け親もバンバータです。

ズールネイションはブラックアメリカンとしてのルーツをヒップホップで表現するクリエイト

集団に成長しました。

Grandmaster Flash グランドマスター・フラッシュ

バルバドスからの移民の子。

子供の頃から電化製品に興味を持ち、解体したりして遊んでいたような子供でした。

ストーリから推測できますが、マスターは決して貧しい家庭で育ったわけではなさそうです。

父親はレコードコレクターで、買ってきたレコードプレイヤーを改造して、DJの研究に日々没頭してました。

フラッシュがヒップホップに貢献した功績とは、曲を流すだけのターンテーブルを楽器にしたことです。

スクラッチを広めたのも彼の功績です。

グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブ

フラッシュのプレイに魅了された観客の中には、彼の華麗なプレイを観察するように見る人が出てきました。フラッシュとしては純粋に音楽を楽しんでもらいたかったそうです。

プレイではカリスマのフラッシュでしたが、MCが苦手なフラッシュはDJとMCを分業制にしました。

MCをメンバーとして加入させたグループがグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブです。

MCを全面に出したパフォーマンスは、パーティーというよりコンサートに近いものになりました。

この頃からヒップホップミュージックはDJ中心からラッパー中心になりました。

グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブ名義で永遠の名曲Messageを世に出しています。

この曲はヒップホップ=パーティソングという図式を真っ向から覆しました。

自分たちの置かれた環境のクソさを訴えるメッセージ性の強いシリアスな内容です。

MCのパイオニア

誰がラップという歌唱スタイルを最初に始めたのかは答えが1つではないです。

本編ではDJハリウッドがラップの父であるといわれています。

ただ、ラップをするMCはボーカルではなく客を煽ったり盛り上げたりする役でした。

ゴスペル・カルテットはヒップホップが生まれるはるか昔からあるゴスペルのジャンルですが、韻踏み、歌い方もかなりラップです。

ギル・スコット・ヘロン,ラストポエッツ、ソニア・サンチェス、ワンダ・ロビンソン、マルコムX、モハメド・アリ、バリー・ホワイト、アイザック・ヘイズ、NYのラジオDJのゲイリーバードやフランキークロッカー等たくさんの人がラップの誕生に影響を与えました。

ラップに影響を与えたのは音楽だけではなかったのです。

フランキークロッカーというラジオDJはヒップホップが嫌いだったのですが、当時の彼のユーモラスな話し方を、当時の聴者の若者はよく真似をしていたそうです。

DJ Hollywood DJハリウッド

Happy 63rd to DJ Hollywood #DJHollywood

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MCのパイオニアとも言われているハリウッドです。(MCなのに名前にDJがつくのは、当時DJをやりつつ余裕があればMCをやるスタイルだったからです。)

ハリウッドは影響されたミュージシャンを3人挙げます。

フランキークロッカー、ラストポエッツ、ピグミートマークハム。

ただ、彼の活動場所はドレスコードがあるディスコ・クラブでした。

なのでヒップホップ界隈からは多少批判があります。

ブロンクスのパーティーではブレイクが命でブレイクがない音楽はヒップホップとして認められないからです。

ハリウッドが影響を受けたピグミートマークハムの音源を聞くと今でも通用するラップなのが衝撃的です。

ストリートから表舞台へ

ニューヨークのサウス・ブロンクスで産声を上げたヒップホップはどのようにして全米、世界に広がっていったのでしょうか。

ニューヨークの貧民街の若者にとっては、ヒップホップパーティをするのに必要な機材は高額でした。

そんな中1977年ニューヨークで大停電が起きました。

1日半と広範囲で停電が起きていたため、ありとあらゆるお店で窃盗の被害が起きていました。

ヒップホップをやりたいやつらは、電気屋で音楽をやるための機材を盗みまくりました。

それを景気に、街中でヒップホップパーティが行われるようになりました。

黎明期のヒップホップの資料は実はあまりありません。曲がレコード化されていなかったからです。

ヒップホップとはパーティの現場で体感するものだったので、レコード化するという発想自体がありませんでした。

ヒップホップ・ミュージックがレコード化されるようになるといよいよ全米、世界の人々の耳にヒップホップが届くようになりました。

Grandmaster Caz グランドマスター・カズ

#keepitgreen

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写真は最近のカズさんです。

劇中のインタビューでわかるとおり、底抜けに明るいです。

作詞に影響されたアーティストはバリーマニロウ、サイモン&ガーファンクル、ビートルズ、ローリング・ストーンズと白人音楽ばかりです。

リリシズムを大事にするカズさんはニューヨークでヒップホップバスツアーのガイドもやってます。https://www.hushtours.com

The Sugarhill Gang シュガーヒルギャング

ニュージャージー州(ニューヨークシティのすぐ下の州)でシルビアンロビンソンという歌手はオールプラチナレコードを立ち上げました。

経営難に陥った彼女は姪のバースデイパーティでハーレムのクラブに行き、DJラブバグスタースキーに出会います。

スタースキーのラップに衝撃を受けたロビンソンはレコード制作のオファーを出すが断れました。

そこでニュージャージ州のピザ屋で働くラッパー、ビッグバンクハンクをスカウトし、シュガーヒルギャングを結成させました。

1979年にラッパーズディライトをリリースし、ラップソングとして初めてヒットしました。

しかし、ニューヨークのブロンクスのラッパーからはバッシングがありました。

ビッグバンクハンクはグランド・マスターカズからラップを教わったのものの、カズの歌詞をパクリそのままレコードにしていたからです。ビッグバンクハンクは自分では作詞をしたことがないMCでした。

シュガーヒルギャングの後を追うように、ラップミュージックは量産されレコード化されましたが、一過性のものとなり終わりました。

ラップと他ジャンルの融合

アップタウンでブイブイ言わせていたアフリカバンバータはついにダウンタウンのクラブに招待されるようになります。

しかし、そこは当時白人の中で流行っていたパンク・ロックを流すクラブでした。

バンバータは白人ばかりのクラブでロックを流すようになり、そこで新しい音楽を吸収していきました。

ダウンタウンで流行っていた音楽と自分のルーツの音楽を融合させ、最先端技術を駆使した曲プラネット・ロックを発表しました。この曲はクラフトワークというドイツのエレクトロニックグループの影響が色濃く出ています。

新しい形への変化

Def Jam Recordings デフジャム

1984年にラッセル・シモンズ(黒人)とリック・ルービン(白人)が設立したレコードレーベル。

ビジネスマンとしての嗅覚の鋭いラッセルと、音楽プロデューサーとして並外れた才能をもつリックはRUN DMC、LL Cool J、ビースティーボーイズを輩出し、ヒップホップをマイナーな音楽からメジャーな音楽にのし上げました。

RUN-D.M.C ラン DMC

Old school #RunDMC #TBT

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名実ともに誰もが認めるヒップホップアイコンです。

当時ヒップホップアーティストは皆ステージでは思いっきりスターを気取りたくて着飾りまくっていました。

しかし、彼らはステージで普段着のアディダスのスニーカーにジーパン、カンゴールのハットにデッカい金のネックレスを身に着けストリートファッションのままパフォーマンスをしました。そのリアルなスタイルはストリートの支持を受けました。

アスリート以外で初の広告塔としてアディダスと契約したラップグループとしても有名です。

無駄を削ぎ落としたファッションと音楽でヒップホップグループとして様々な偉業を成し遂げました。

エアロスミスとのコラボしたWalk This Wayはあまりにも有名です。

初めてロックとヒップホップがクロスオーバーした超重要曲。

LL Cool J LLクールジェイ

デフジャムにデモテープを送り、デビューにせいこうしたLL Cool J。

長身でイケメンなLL Cool Jは女性人気も抜群でした。

ヒップホップ初のラップバラードをリリースしたのもLL Cool Jです。

Beastie Boys ビースティー・ボーイズ

白人3人組のヒップホップユニット。

元々はパンクロックを演奏していましたがデフジャムと契約後、リック・ルービンのプロデュースでロックの演奏をバックにラップするというスタイルにチェンジしました。

この白人がロックにのせてラップをするというスタイルで白人のキッズの人気を得ました。

ギャングスタラップの誕生

ここまで西海岸はヒップホップの歴史を語る上で重要な役割を果たしていませんでした。しかし、80年代後半にカリフォルニアで爆発的に人気を得た音楽がギャングスタラップでした。

以降ウエストサイドのヒップホップは一大勢力として存在し、現在でも幅をきかせまくっています。

NWAを輩出したコンプトンという町は全米でも屈指の犯罪率の高い地域であり、最近ではケンドリック・ラマーの地元でもあります。

アイスティー Ice-T

ギャングの仲間内で盛り上げるために始めたアイスティーは日常をラップするスタイルでスクーリーDに影響を受けました。

後のNWAにも多大な影響を与えます。

NWA

NWAが世間に出る前はテクノが流行したLAミュージック・シーン。

彼らの地元コンプトンで起きてる日常をつづり、反骨心剥き出しであらゆるものに噛みつく最も危険なヒップホップグループとしてFBIに目をつけられるくらいの問題児でした。

この見覚えのあるステッカーはCDのジャケットに貼られてるのをよく見ますね。

NWAの歌詞が過激すぎて教育上よろしくないとのことで、以降過激な歌詞を含む音楽のCDにはこれが貼られるようになりました

主なメンバーはイージーイー、アイスキューブ、ドクター・ドレです。

実はメンバー5人の中で本当のギャングだったのはイージーイーだけでした。

彼らが本当に伝えたかったのは、ギャンスタの日常ではなく、黒人というだけでギャング扱いされ虐げられる社会への問題提起でした。

Dr. Dre ドクター・ドレ

#Repost @beatsbydre: "It All Started Here." #StraightOuttaCompton

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もはや説明の必要もないセレブリティとも言えるドクター・ドレ。

グループ、ソロ、レコード会社、プロデューサー、実業家として大成功を収めすべてを手に入れたドレー。

NWA脱退後、シュグ・ナイトと共にデス・ロウ・レコードを設立。

ソロアーティストとしてリリースしたクロニックがバカ売れし、以降ウエストコーストの最重要人物として現在も君臨します。

クロニックのリリースでラップは危険なものから大衆音楽となり市民権を得るようになりました。

これまたアホみたいに売れたドレの2ndアルバムのタイトルは2001ですが、実際発売されたのは1999年なので注意してください。これ試験に出ます。

さらに詳しいヒップホップの歴史を知りたい人へ

本編の続きがあるとしたらNas、Jayzの登場、2Pacとビギーというスターの誕生とヒップホップの歴史に刻み込まれた負の遺産である西海岸、東海岸の抗争、エミネムといったところでしょうか。

また、映像以外でもヒップホップの歴史がわかる面白い本や漫画もあります。

これは漫画でヒップホップの歴史を描いた作品です。

アプローチの仕方が面白く、絵もアメリカンで面白いです。

最後に以下の本はヒップホップレボリューションよりも更に詳しくじっくりと直接ヒップホップと関係ない題材からヒップホップの誕生と紐づけて、取材に取材を重ね仕上がった歴史長編大作です。著者のこの本に対する情熱は尋常ではないです。ライムスターの歌丸さんも本著を大絶賛していました。この本はマニアックなヒップホップファン、もはや文化系インテリヒップホップファンじゃないと読破するのは困難な本でしょう。

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